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イタリアあっちこっち陶器の街 ストーリ編
from Natsuki Suzuki
昔からとにかく食器が好き。
若い頃は、モダンな白い器に憧れ、イタリアに住み始めた当初も「ポルチェッラーナ・ビアンカ」に夢中になったりしたが、イタリア国内いろいろ旅するうちに、「マヨルカ陶器」の魅力にすっかり取り付かれてしまった。というのも、イタリアには実に多くの個性あふれる「マヨルカ陶器の街」があるからだ。
ぽっちゃりと厚みがあって手に優しく、手描きならではの味わいがあるマヨルカ陶器。
そんなマヨルカ陶器との出会いを綴った、ショート・ショート・ストーリーをお送りします。
第十三話 陶器 vs 磁器のお話 その2
さて、イスラム圏で開発された錫釉陶器は、その後ルネッサンス期のイタリアを通じて、ヨーロッパ各国で大発展するわけですが、それでも中国磁器の魅力はまだまだ別格なものでした。
15〜16世紀のイスラム世界では、 ますます拍車のかかる青花人気で、それらを真似た白釉藍彩陶器を作り、やがて絵付けはイスラム伝統と中国様式、果てには西洋的なものまでミックスされた、独特な絵柄へと発展します。それが、オスマン•トルコ時代のイズニック陶器。とはいえ、イスラム圏ではとうとう磁器の発明は、ままなりませんでした。 ヨーロッパで最初に磁器研究を行ったのは、16世紀のメディチ家(さすがメディチ、早い!)。でもそれはtenere(テーネレ)といわれる軟質磁器で、まだまだ質において本物とは比べものにならず、開発のあまりの難しさにあっさり製造を中止。絵柄はやっぱりここでも青花を真似たブルー&ホワイト、alla porcellana (磁器風装飾)でした。 そして世の中は、大航海時代を迎えて17世紀初頭、オランダ東インド会社の登場です。彼らを通して中国や日本から大量の磁器が輸入されるようになると、ヨーロッパ人のあこがれは、一気に“白い宝石”と呼ばれるこの磁器に集中し、各国の王侯貴族は、我れ先にと自国での磁器制作の研究を行いました。 17世紀中頃には、オランダのデルフトで、青花や伊万里の模倣品がマヨルカ技法で大量に作られるようになると(デルフト陶器)、王侯貴族のみならず一般市民の間でもシノワズリー(中国趣味)はどんどんエキサイト! そして月日は経ち1709年、とうとう中国磁器に匹敵する硬質磁器がドイツで完成されました。それが、有名なマイセン磁器。ザクセン選帝候フリードリヒ•アウグスト1世は、 マイセンに王立磁器工場を設立、 その技法が外部に漏れないように作業にかかわる者はほとんど監禁状態(コワイッ!)で、次々とすばらしい作品を生み出させました。 さてここで、話しはやっと「マヨルカ陶器•旅物語」に戻りまして、ナポリの登場です! ときは1738年、ナポリ王に即位したカルロス3世の結婚相手、マリア•アマリアがフリードリヒ•アウグスト1世の孫娘だったこともあって、カルロス3世は、ナポリ王国にも王立磁器工場を設立することを決めました。 場所はナポリの北、街を見渡せる小高い丘の上にあるカポディモンテ。すでに建設が始まっていた新しい王宮のすぐ近く。独自に研究を重ね、ついにすばらしい光沢を持つ白、きめ細かく、繊細な形でも作りやすい軟質磁器作りに成功します。腕のいい職人を呼び、質の高い作品をどんどん作りました。 王立工場はいったん閉鎖されますが、後、王位を継いだ息子フェルディナンド4世が再開、1806年まで続き、今現在はカポディモンテ国立美術館となっています。 そのなかに、カルロス3世の妃マリア•アマリアが作らせた「salottino di porcellana(磁器の間)」というのがありまして、それを一目見たいがため、私たちはナポリに寄ったのでした。それでは、その様子はまた次回! 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る
これまでのお話で、いわゆるマヨルカ陶器といわれるものが、その昔イスラムからスペインへ、そしてイタリアへと伝わり、ルネッサンスを通してどのように発展していったかが少しはわかっていただけたんではないか(たぶん…)と思っておりますが、ここでちょっと寄り道して、お話しを陶器(ceramica)から磁器(porcellana)へと移したいと思います。
そもそもなぜ、錫釉陶器が中世イスラム世界で大発展したか、というお話しから。 それは当時、大量に輸入されていた中国磁器の影響がとても大きかったからなのです。中国ですでに7世紀から作られ始め、10〜13世紀にかけて大発展した白磁がイスラム圏でとても好まれたのでした。つるつると輝く白、薄くて固く丈夫な磁器、それはまさに憧れの的でした。 そこで彼らは、9世紀頃から、なんとかこの中国の白磁を真似したい!と磁器研究を始めるのですが、磁器を作るには、カオリンと呼ばれる白陶土がなければダメ。中国の白磁は、カオリンがよくとれるおかげで(中国のカオリンという場所で採れる白土だからカオリンと呼ばれるのです)、わざわざ工夫しなくても元から真っ白。18世紀以降には、ヨーロッパのあちこちでも発見されたカオリンですが、当時は中国にしかなかったので(当然中国人は、カオリンをどこにも流出させませんでした)イスラム人は白い錫釉を開発し、その代替品としたのでした。 さらに、14世紀になって作られ始めた、白磁にコバルトで絵付けをした青花磁器(日本では染め付けと呼ばれます)などに至っては、もうイスラム世界を超えて、ヨーロッパでも人気バクハツ! もともとは、イスラム圏でとれたコバルトの伝来、イスラム装飾の伝統である草花文様の影響などで生まれた青花ですが、青=聖なる色とするイスラム人に大ウケして、当初は青花の大皿などを中国に大量に注文しました。 これら中国磁器は、イタリア商人によってヨーロッパにも持ち込まれるようになりました。その輝く白さ、格調高い文様、陶器とは比較にならない堅さで、もう完璧に宝石扱い、王侯貴族だけが手に入れられる貴重なものとなり、やがて中国磁器を持つことは、お金持ちのステイタス•シンボルになりました。
ちなみにもうひとつ、白い地を生かした陶器がスリップウエア。これは、器にスリップ(白系の粘土を水に溶かしてクリーム状にしたもの)を化粧掛けし、模様を付けたり色彩したりした後、鉛釉をかけて焼いたも。 なかでも13〜14世紀にかけて、イタリアでよく作られたものがズグラッフィートと呼ばれるもので、これは、 スリップが生乾きのうちに、尖ったもので表面を引っ掻いて模様を描き、つまり、引っ掻いたところだけスリップが削られ土色の線画が残るというもの。 そして、顔料であるマンガンや銅、鉄で色彩し、鉛釉をかけて焼く。焼くと、顔料がうわぐすりと解け合って、流れでるような偶然的な色合いができあがります。その色合いは、同時代イスラム圏で作られていたペルシャ三彩そっくりで、それはまた中国で9世紀に作られていた唐三彩にそっくり! ちなみにイタリアではスリップのことをingobbioといいます。 次回では、ヨーロッパにおける磁器発展についてお話ししたいと思います。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第十一話 トスカーナの「呉須の槲手」
南に下る前に、ちょっとフィレンツェ周辺、トスカーナのマヨルカ陶器について、お話ししたいと思います、ハイ。
あれはフィレンツェに住んで間もない頃、まだマヨリカのなんたるかも全く知らないとき、数ある陶器屋さんでよく見かけたのがニワトリ柄の陶器。素朴さが気に入って衝動買い。絵柄の違うニワトリカップが数種集まりました。 コレクションするつもりは別になかったのですけど、もっといろいろなニワトリ柄がほしいなーなんて思っていたある日、フィレンツェ近郊のモンテルーポという街で「国際陶器祭り」なるものが開かれるというウワサを聞き、「それではさっそく、モンテルーポでニワトリ探し!」と、意気込んで行ってみました。 ところが「国際陶器祭り」とは名ばかりで、街も別段どってことはなく、展示会もショップもいまいちで、細い坂道にしょぼい出店が並ぶだけ。私のニワトリさんもどこにも見当たらず、かなりがっかり…。 こんな思い出があるモンテルーポですが、実はここ、トスカーナのマヨリカ陶器を語るには、なくてなならい重要な場所だったのです。あのときは知りもしなかったとても重要な「陶器博物館」もあったのでした。 もともとトスカーナは、オルヴィエートと並び、早くからアルカイック•マヨリカが作られていたところ。その数々あった窯のなかでも、最初に頭角を表したのがこのモンテルーポなんだそうです。
そしてもうひとつ、トスカーナで名を残すのがカファジョーロ窯。カファジョーロは、フィレンツェの北に広がるムジェッロ地方にあり、ここらは自然がいっぱいで狩猟なども楽しめたからか、メディチ家のお気に入りの場所のひとつとなり、16世紀、りっぱな別荘が造られました。 メディチ家といえば、泣く子も黙るルネサンスの大パトロン、 彼らはこの別荘内にモンテルーポから職人を招聘して、御用窯を作らせました。ここで、すばらしい芸術的マヨリカが数々生まれたことはいうまでもありません。 そんななかでも、このカファジョーロで15世紀によく作られたというzaffera a rilievo、これが実に私好み! 直訳すると「コバルトブルーのレリーフ風陶器」ってな感じかな。コバルト顔料(zaffera)を乗せた部分がこんもり盛り上がって、レリーフ( rilievo )のように見えることからこう呼ばれるようです。 これらは15世紀に入って、中東からコバルトが輸入さるようになったおかげで作られるようになりました。図表化された動物や槲(かしわ)の葉の文様が、どことなくオリエントしてて、 きれいな藍色がとても上品。ちなみに日本では、これらの陶器を、槲の葉文様があるところから「槲手(かしわで)」と呼ぶらしい。さらにzafferaは日本語で呉須(ごす)。両方合わせて「呉須の槲手」。シブイッ!! シエナ周辺も陶芸が盛んで、このあたりのものは、スペインからの輸入マヨルカ陶器に影響されたものが多く、それらはイスパノ•モレスコと区別してイタロ•モレスコ陶器(ムーア風イタリア陶器)と呼ばれています。 これらは現在でもシエナやサン•ジミニアーノといったおなじみの街のみやげ屋で盛んに目にし、かわいらしい花柄や蔦模様は、イタリア•マヨルカ陶器の基本って感じです。時代ものが見たい人は、サン•ジミニアーノのオスペダーレ•ディ•サンタ•フィオーレ博物館へどうぞ。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第十話 蔦のからまる博物館-ファエンツア
ウルバニア、グッビオ、デルータ、オルヴィエートを回った後はいったんフィレンツェに戻り、身を軽くして、今度は電車でファエンツァへと向かいました。ファエンツアまでは電車で2時間ほど、フィレンツェからじゅうぶん往復できる距離です。
駅から目指すはファエンツァ国際陶器博物館。気持ちのいい並木道をしばらく行くと、緑に囲まれたりっぱな博物館が見えてきます。ここもまた古い修道院を改装したものらしく、どっしりとした木の古いドアとその周りのモダンな装飾。イタリアの建築はこのように、古いものに新しいものを組み込ませるという使い方が実にうまいなあ、といつも感心させられます。
さてファエンツァは、16世紀、マヨルカ陶器のもっとも発展した街としてヨーロッパ中に名をとどめました。それが証拠に他のヨーロッパでは、マヨリカ=ファエンツァとなり、マヨルカ陶器は通称「ファイエンス」と呼ばれるようになります。 そんなわけで、現在でも「イタリア陶器の街ナンバーワン」といったらやっぱりこの街! 博物館を回っていると、年代によって変化していくファエンツァ陶器の特徴がよく見てとれます。中でももっともファエンツァ的なのが、お馴染みのイストリアート。でもこ街のイストリアートは、白熱して過剰になりすぎた絵柄や色彩を一掃して、 stile compendiario (胆略されたシンプル様式、とでも訳そうか) が主流になったこと。 bianco di Faenza (ファエンツァの白) と呼ばれるクリーム色の下地が引き立ちます。 それからもうひとつ目を引いたのが、18世紀に流行したという a garofano という絵柄の陶器。ガローファノとはカーネーションのことで、色彩のコンビネーションが独特で、なんとなく日本の伊万里を思わせる色合いです。ひょっとして影響されていたのかも? それから私たちは、順を追ってイタリア各街の陶器を鑑賞し、(イタリアには、まだまだホントにたくさんの陶器の街がある!)、現代アート部門をさっと見て外へ出ました。
博物館を後にして、食事をしてから今度は街中探検。 カテドラルのあるリベルタ広場やそれに隣接するポポロ広場を中心に、この街は、わりとゆったりと広がっています。いや、ゆったりしているように感じるのは、皆が皆 (紳士や太ったおばさん、果ては神父さんまで!) 自転車に乗って移動しているからかも。 そして、街中のここかしこにある陶器屋さん。販売だけをしている小さなショップから、工房も兼ねている大きなショップまでさまざま。そのショップや工房には、必ずFedeltà (忠実) のシンボルの描かれた陶器でできた表札があり、それぞれショップの名前と番号が表記してあるのがおもしろい。後からこれは、先ほどの博物館でもらった街の案内図に示された各ショップの通し番号であることが分かりました。イタリアの中ではめずらしく(!)きちんと整備された街です。 先ほど博物館で見たファエンツァ陶器の特徴をそのまま忠実に再現して、伝統として受け継いでいる工房、独自のスタイルを貫く工房、ファエンツァはイタリア一の陶器の街だけあって、その質はどこもかなり高いものでした。 ファエンツァ陶器探索を無事終えて、私たちは再び列車に乗りフィレンツェへと戻りました。翌日はいちにち休んで、その後はナポリ、アマルフィー周辺、そしてシチリアへと下る予定です。
ちょっとこぼれ話し。 以前仕事でファエンツァを訪れた夫が、おみやげに買ってきてくれた小さな絵皿。皿全体がお月様をイメージしていて、でも決してメルヘンチックなものではなく、ちょっとニヒルに笑うお月様の笑顔が描かれています。とっても気に入っていて、いつもベッドサイドに置いて、就寝前にはずしたピアスや指輪を置くのに重宝していたのに、つい最近、息子がガッチャーン!と割ってくれました。陶器やガラスは使う事に意味がある!とふだん息巻いているものの、割られてみるとトホホです。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第九話 オルヴィエートの緑と黒
紹介してもらった陶芸家、ミレッラさんのアトリエは、観光客が行き来するメイン通りからはちょっとはずれた静かな裏通りにありました。このあたりの散策も、なかなかオツなもんです。
古くて大きな木戸が彼女のアトリエの入り口。その中は、外からでは想像もできないほど天井が高く、広々としていました。壁一面にめぐらされた板をはっただけの棚の上には、素焼きの器や、うわぐすりを塗り終えたばかりの真っ白な器たちがズラ〜リ。 ミレッラさんは、さっそくマヨルカ陶器ができるまでの手順を説明してくれました。内容は、ウルバニアの日本人女性が教えてくれたこととほぼ同じ。まずは粘土で形を作り、よく乾かしてから素焼きします。ここでの温度は960°〜990°。できあがったら表面をきれいに磨きます。 ここからはミレッラさんの実演。大きな樽にたっぷり入った真っ白いうわぐすりを長い棒でよくかき回し、磨き終えた小さなつぼを大きなピンセットで挟んで、ズボッ!とうわぐすりの中につけてすぐに取り出します。一瞬の早わざ芸という感じで、うわぐすりはすぐに乾き始めます。 「じゃ、今後は絵付けね」と、ミレッラさん。「今、仕上げているのは、オルヴィエートの伝統的絵柄なのよ」と、いいながら彼女は作業台に腰掛けます。 棚にたくさん並んでいた白い小さな器をひとつ手に取り、小さな卓上のターンテーブルにのせて、細い筆で一気にすーっとラインをひく・・。
それではここで、ミレッラさんのいうオルヴィエートの伝統絵柄について解説! これらは分類的にはオルヴィエート様式と呼ばれ、だいたい13世紀中頃から15世紀初頭にかけて、主に現在のラッツィオ、トスカーナ、ウンブリア州周辺で生産されていたマヨルカ陶器。だがマヨルカといっても、以前に説明したマヨルカ島経由もの、つまりイスパノ•モレスコ陶器にはあまり影響されていません。 ということは、イタリアの錫釉陶器は一般的にマヨルカと呼ばれてはいても、このようにイタリア独自のものあるということで、(ビザンティン文化などの影響を受けていて、主にイタリア中部、シチリアで多く作られました)これらをマヨルカ島経由のものと区別してアルカイック•マヨリカと呼ぶそうな。 ミレッラさんが本を開いて、20世紀初めに行われた発掘調査によってたんまりと出て来たという、当時の陶器の写真を見せてくれました。 クリームがかった白地に、象徴化された動物や文様化された植物、まるでトランプにでてくるような絵柄の人物像や編み目模様などが、暗褐色のくっきりとしたラインで描かれ、ところどころグリーンで彩色されています。グリーンは酸化銅で、暗褐色はマンガンからできる色だそうです。 器の形は、だいたい皿や小さなお椀、すっきりとした細長い水差し。おもしろいのが、まるでペリカンの口のような大きな注ぎ口のついたぷっくりした水差しで、これは特別にパナータと呼ばれるそうです。 そうそう、オルヴィエートはもともと、エトルリア人によって発展した街だから、それよりもっともっと以前には、ブッケロも作られていました。
すっかりお世話になったミレッラさんの工房を後にし、改めて街中の陶器屋さんを覗き回ってみると、なるほど、緑と暗褐色を基調とした伝統的絵柄をそのまま再現したもの、あるいは現代風にアレンジしたも の、そんな陶器を扱う店もけっこう目につきました。シンプルな絵柄と おちついた色合いは、和食のときの取り皿としても充分活躍しそうです。 ちょっとこぼれ話し。 パナータってホントへんな形。やたら注ぎ口がでかいのです。なんのため?それでいろいろ調べてみたら、ある文献では、これはパン粥を入れるためのものだったそうな。パン粥っていうと、トスカーナ料理で有名なリボッリータみたいな感じかな? 残って硬くなったパンを野菜と一緒にグツグツ煮て食べる庶民の味、というか、昔は貧しくてそうやって食べるしかなかった、という一品。そうか、あれだったらかなりドロドロしてるから、大きな注ぎ口が必要だな…と納得! 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第八話 オルヴィエートのレモンたち
600枚のタルゲとお別れして、私たちは次の目的地オルヴィエートへと向かいました。
オルヴィエートは、凝灰岩の上にに聳え立つウンブリア州ナンバーワンの観光地! もうすでに何回も来ていますが、歴史ある大聖堂を誇る中世の街並には、陶器屋さんが並び、何度訪れても気持ちいいところ。街への登り口に車を置いて、フニコラーレ(ケーブルカー)と巡回バスを乗り継ぎ、中心地へと向かいます。 さてここには、実はもうお目当ての陶器屋さんがあるんです。お気に入りのレモン柄シリーズのある小さなショップ。レモン柄は、マヨリカ陶器にはごくありふれた柄ですが、この作家のものは、色彩や筆のタッチが実に私好みで、モチーフとしてのレモンの使い方もバツグンにじょうず。(って、あくまでも私の好みですが…)そこで、ぜひこの作家さんの居所を訪ね、絵付けの技術を取材させていただきたいと、まずはそのショップへと足を運びました。
ブォナ・セーラ!とあいさつもそこそこに、「実は私、この陶芸家の大ファンなんです」とレモン柄を指差し、店員さんにめいっぱいお世辞をふりまいて、さりげなく作家のアトリエの場所を聞いてみました。ところが、この作家はグッビオの人!なあんだ、ザンネン!まさかこれから、再びグッビオに引き返すワケにもいかないし、どうしようか…。 すると、事情を察した親切な店員さんが「絵付けを見たいのなら、 オルヴィエートの知り合いの作家を紹介するわよ」と、申し出てくれました。親切な店員さんはさっそく電話を入れて、なんと翌日にアポがとれました。私はお礼もかねて、ここでは、しっかりレモン柄の陶器(とってもステキな水差し!)を購入。 アポも取れたところで一息つき、ちょっとオルヴィエート観光! まずは大聖堂です。これは1290年に建築が始められ、完成したのは17世紀に入ってからというから気が長い話し。イタリアゴシックを代表するもののひとつで、浮き彫り、モザイク、バラ窓などがウツクシイ…とふつうの解説は語るのですが、まあゴシック建築だったら、個人的には小塔のいっぱいついたミラノの大聖堂のようなフランス式が好き。 でも内部のルカ•シニョレッリの壁画(1499年制作)は必見。こりゃあスゴイ! 筋肉隆々、 色彩もハデだし圧倒されます。(ミケランジェロの前兆といわれるのも納得!) もうひとつ、なかなか面白いのが「 サン•パトリツィオの井戸」。ウルビーノ大公のところで登場した教皇ユリウス2世の後継者、クレメンテ7世が1527年の「ローマ略奪」から逃れてこの街にやってきて、万が一包囲されたときの水の確保のためにと作らせたのがこの井戸。 降りる人用、登る人用と2つの螺旋階段がうまく重なり合っていて(なんとなくだまし絵で有名なエッシャーの階段を連想してしまう)、内側には小さな窓がいっぱい開いていて、ちょっとカワイイ。でも深さが62メートルもあり、高所恐怖症の私は上から覗いただけで逃げ去りました。
さて、話しを戻して…。 つかの間の観光を楽しんだら街を降り車にのって、今宵の宿「アグリトゥリズモ・カサノヴァ」へ向かうべく、街からちょっと離れた緑の丘をくねくねと登って行きました。途中ひなげしが、まるで真っ赤なじゅうたんのように一面に咲ていたり、小さな湖がポッカリ水を張っていたり、アグリトゥリズモは、そんな見晴しのいい丘の上にありました。 そしてその晩は、オルヴィエートの有名な白ワイン、オルヴィエート・クラッシコをガーッと飲んで早めにベッドにつき、翌朝はアポイントに間に合うよう早起きして、 再びオルヴィエートへと向かいました。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る
グッビオにもう一泊して、翌日オルヴィエートへと向かう道すがら、私たちはデルータに寄りました。デルータは小さな街で、ことさら観光地というわけでもないのですが、マヨルカ焼きの産地としてはこと有名。
15世紀末、こちらはユリウス2世の宿敵、悪名高きチェーザレ•ボルジアの文芸保護を受けて、マヨルカ陶器が発展しました。 なるほど。街に近付くと街道沿いに、CERAMICAという看板を掲げたショップが次々に現れます。 ひときわ目をひいたのは、孔雀の羽を文様化したもので(これらが孔雀の羽なのだということは、実は後になって解ったのですが…)、皿、カップ、壷、デキャンター等、あらゆる陶器に施されていて、ちょっとケバケバしい色合いだったりすんですが、それはそれでけっこう味わいがあります。
さて、適当にショップを物色してからデルータの旧市外に入り、お目当ての州立陶器博物館に向かいます。もともと13世紀に作られた修道院を改装したというだけあって、きれいに手入れされた中庭があったり、なかなか気持ちのいい博物館。 見学の道順に添って、陶器の歴史の流れがとても分かりやすく表示されていて、各コーナーには簡単な説明文のコピーもあり、自由に持ち帰ることができます。 さてここで見たかったのは、前回のグッビオの項でもふれたラスター彩。(ならグッビオの陶器博物館に入りゃあよかったのに、ハンサムなおにいさんの説明聞いたりしているうちに、入りそびれてしまったのでした…)そこで、イタリアで最初に作られたラスター彩がデルータということもあって、いったいどんなふうに光っているのか、この街で是非本物を見てみたかった(と、いいわけする…)。 ……おお、あった、あった。こりゃあホントに玉虫色だ。右から眺め左から眺め、すると角度によって金色に光ったり、青みを帯びたり、赤みを帯びたりする。 祭典用に作られていたという、華麗なポンパと呼ばれるバカでかいラスター彩の皿もありましたが、でもまあ、 やたらキラキラしていて、 私の趣味ではないわなー。 さて、ここで他に興味をひいたのが、タルゲと呼ばれる細長いプレート。いわゆる絵タイルで、信仰的な絵柄が描かれています。 提示してある説明を読むと、主にマドンナ・ディ・バーニ聖地教会のものだということで、暇そうにしている係員(失礼!)に話しを聞いてみると、その教会はトーディ方面に2キロほど車を走らせたところにあるので、是非行ってみなさいとのこと。
私たちはそのおすすめに忠実に、軽く昼食をとってから教会まで足をのばしました。外見はなんてことはない、これが聖地?って感じのところですが、中に入ると、うわッ! 小さな教会の白い壁一面にタルゲがびっしり。そしてこれらには、こんな言い伝えがあるそうな…。 —1657年、クリストフォロ・ディ・フィリッポという名の小間物商人がこのあたりを歩いていると、ふと足元に聖母と幼子イエスの絵が描かれたマヨルカ陶器の破片が落ちていたので、彼はそれを恭しく拾い上げると、樫の木の枝にひっかけた。ある日、妻が重病を煩ったので、その破片の聖母のもとに出向き妻の快復を祈った。するとたちまち病気が直ったので、彼は感謝の気持ちを込めて、その樫の木に奉納のタルゲを飾った。これが信仰の始まりとなり、それからというもの多くの信者が聖母への祈願としてタルゲを奉納するようになって、今現在、600枚以上が飾られている— 私たちは「あ、この絵、ほのぼのとしてカワイイ」とか「これ、なんか笑える」とかいい合いながら、タルゲ鑑賞を十分楽しみました。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第六話 グッビオのまっくろ陶器
さて、小高い山の斜面にひっそりとくっついているような街、グッビオ。その軽い斜面を登って行くと、あるわ、あるわ、風情に満ちた中世の街のそこかしこに陶器の店があります。葡萄や鳥、レモンといったモチーフを使った明るいものから、紺やベージュを基調としたシックな柄ものまで、ショップによって個性はいろいろ。
そんなショップのひとつ、いかにも伝統的絵柄を守ってます!といった風情のショップの店先で、所狭しと並べてあった陶器の写真を撮っていると、中からいじわるそーな女主人がでてきて「写真撮影いっさいお断り!最近は絵柄を真似されて、本当に困るわ」なんていってきました。 ……何いってんだか!今の世の中、真似もへったくれもあるもんですか。そんなに大事なら、金庫の中にしまっときなさいヨ……と思わずつぶやいて、早々退去。
気を持ち直して、再び石畳みの路地をテクテク登っていくと、一風変わったショップが目に入りました。まっくろな陶器ばかりがずら〜っと並んでいる。中に入ると、「さっきのオバサンとは、えらい違い!」とばかり、とても親切な青年が(おまけにハンサム!)、この真っ黒陶器の由来の説明をしてくれました。 これらはブッケロといって、俗に“エトルリア人の陶器”といわれており、鉄分の多い土で形成した土器を木片で研磨し(なのでブッケロは研磨陶器とも呼ばれます)、還元炎焼成すると、このように地肌がまっくろになるということ。 還元炎焼成とは、窯の中の炎を制限して(つまり通風孔を部分的にふさいで酸素を減らす)まあ、簡単にいえば、煙でいぶし焼きにするんですね。 さて、ここでちょっと補足。エトルリアをあまりよく知らないという人のために。(←え? 余計なお世話?) エトルリアは、紀元前8世紀から前3世紀くらいまで、イタリアの地にローマ人が住み着く以前に文明を築いていた民族。 もともとはエトルリア人も他の地から流れ着いてきたらしいのですが、彼らがイタリアに建設した主な都市の場所を見ると、トスカーナからラッツィオにかけて気候も景色も申し分ない、さすがいい土地選んでますよね〜なんて感心しちゃう民族。文化水準もかなり高かったようで、前6〜5世紀には、交流のあったギリシャ文化の影響を強く受けます。 で、このブッケロも、もともとの技法は、エトルリア人よりも更に前に住んでいた民族のヴィッラノヴァ文化を受け継いだものらしいのですが、その後ギリシャとの交流が盛んになるにつれて、だんだんギリシャ風になっていきます。 このショップでは、そんなギリシャ風の絵柄のあるもの、まったくないもの、モダンな形のものなどいろいろあって、黒の色調も微妙に違う。形の違うものを2、3コまとめてサイドテーブルにでも置いたら、けっこうステキなオブジェになりそうだなあ、なんて思いながら手に取っていたら、やはり賢明な友人にその魂胆をすぐに見通され、ここでもおしとどめられて購入は断念…。
ちょっとこぼれ話し。 ブッケロとはまったく別のエトルリア陶器で、私の大好きなものがあります。それは陶棺。これ、ホントにすばらしいんです。テラコッタでできた棺なのですが、上には横たわる夫婦像が飾られている。この夫婦の笑顔がものすごくイイ。いわゆるアルカイック•スマイルなんだけど、ふたりでいたわり合ってるというカンジがヒシヒシと伝わってくるのです。あの世にいってもなお、こんなふうに慈しみあっていられたら最高の夫婦よね、と感心しつつ、現実は厳しいよな、と思う私です…。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第五話 マヨルカ•ロード
ちょっと古い話しですけど、昔けっこう好きだった杏里の歌で「コルドバの踊り子」というのがありました。踊り子というのは当然、フラメンコを踊るジプシーのことなんだろうなあ、なんて思い、ジプシー=神秘的みたいなイメージを勝手に作り上げ、うっとりしたものでした。(が、実際のスペインやイタリアのジプシーは、スリやひったくりの常習犯!)
その影響かどうか、南スペインのアンダルシアにすごく惹かれた時期があり、そして1年ほどバルセロナに住んだときに、ついにその憧れのアンダルシアを訪れました。メスキータや、白い壁に花いっぱいのステキなコルドバ、アルハンブラで有名なグラナダなど、感無量! そして実はこのあたりこそが、ヨーロッパにおけるマヨルカ陶器の発祥の地なのである、というのが今回のお話しです。
時は8世紀初頭、アフリカ北岸に住んでいたムーア人と呼ばれるイスラム教徒たちが、ジブラルダル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、あたりを支配し始め、やがて彼らはこのゴルドバを都として、イスラム王朝を打ち立てました。 前回でもふれた通り中世においては、イスラム文化の方がヨーロッパよりも圧倒的に文化水準が高かったので、コルドバは、後300年間、西ヨーロッパ最大の都市のひとつとなり、イスラム文化の花が咲き開きます。陶器についても同じで、11世紀末には、質の高いイスラム陶器が本土からどんどん運び込まれました。 そんなコルドバ王朝も残念ながら1236年、カスティーリャ王国によるレコンキスタの始まりで陥落してしまうのですが、イスラム王朝は、グラナダで1492年まで残り続け、その間出来上がったのが有名なアルハンブラ宮殿。 陶器にいたっては、13世紀あたり、陶工職人がイスラム本土からわんさと移住してきて、彼らの技法はやがてスペイン人たちにも受け継がれ、 ムーア風スペイン陶器が多く制作されるようになりました。ムーア風な装飾といえば、なんといっても幾何学的文様やアラベスク風草花文様など、連続的なつながりをもつもの。 ということで、初期はこれらの図柄を真似て、そして徐々にスペイン風なものになっていったので、スペインで作られたムーア風錫釉陶器をイスパノ•モレスコ陶器と呼びます。当時の代表的例としては、アルハンブラ宮殿を飾るモザイクタイルや、大きな翼壷のラスター彩装飾などがあり、その精巧さはホントに見事! このように、イスパノ•モレスコ陶器を作っていた初期の窯は、マラガやコルドバ、グラナダあたりの南スペインが主だったのですが、レコンキスタの戦渦にまみれると職人たちが逃げ出したのか、窯場の中心地は東スペインのヴァレンシア地方に移行しました。そのなかでもマニセスとパテルナ、このふたつの街がその後の重要な陶器の生産地となります。
…そうかあ、マニセスとパテルナかあ。今でもスペインの陶芸の街として、いろいろ陶器屋さんが並んでいるんだろうか。 行ってみたいなあ。 ちぇっ。こんなことならバルセロナに住んでいたときに、行っとけばよかったなあ……あ、すみません、ひとりごとです。 とまあこんなカンジで、イベリア半島で発展していったイスパノ•モレスコ陶器は、15世紀、いったんマヨルカ島に集められ、イタリアに大量に輸出され、マヨリカ陶器と呼ばれるようになるわけであります。めでたし、めでたし〜。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第四話 グッビオのキラキラ陶器
グッビオ郊外で泊まったアグリトゥリズモ、oasi verde(オアシ・ヴェルデ)は大正解!アグリトゥリズモが充実しているウンブリアならではの満足度でした。トリュフ三昧の夕食をたらふく楽しみ、翌朝は、緑のなかの新鮮な空気をゆっくり吸いながら朝食をとって、さっそくグッビオの街中へ。
グッビオはマヨルカ時代、錫釉陶器の一種であるラスター彩陶器でマストロ・ジョルジョという名工を産んだ街。ラスター彩とは、 玉虫色のような金属的光沢をもっているのが特徴です。もともとは古代エジプトで、ガラス器に使われていた技法らしいのですが、後、陶器にも使われるようになり、9世紀のイスラム文化圏で発展しました。 当時のイスラム世界は、西はモロッコ、東は中央アジアまで広がるアッパーズ王朝時代。首都バグダードは、科学、医学、数学、文学…あらゆるものが発展した世界最大の大都市でした。ですがここでは、贅沢禁止法として(←アラーの教え?)金銀製品の器の使用が禁止されていたので、その代用品として、キラキラ光るラスター彩が流行っていたというわけです。ちなみにラスターとは英語で“光沢”とか“輝き”を意味し、イタリア語では同意語のlustro(ルストロ)で呼ばれます。 その後ラスター彩は、11世紀末を前にこのあたりからいったん姿を消すのですが、12世紀後半にまた作られるようになり、やがてその技法はスペインに移り、そしてマヨルカ島を経由してイタリアに伝わりました。 イタリアではまずデルータに、そしてマストロ・ジョルジョことジョルジョ•アンドレオリ(マストロとはマエストロのこと。つまり師匠!)が、1490年頃にグッビオに築窯したことで発展します。 彼のラスター彩の特徴は、従来使われていた色の他にルビー色を作り出し、絵付けにもいち早くラファエロ絵画を取り入れたこと。マストロ・ジョルジョのもとへ多くの陶芸家が、その技法を習おうとやって来たといいます。だが彼がいなくなったあとは、誰一人、彼の生み出したルビー色を再現できる人はいなかったとかなんとか…。 イスラムの話しがでたところで、次回は旅物語からちょっと離れて、錫釉陶器がどうやってイスラムからスペインへ、そしてイタリアへと移行していったかを、もうちょっと詳しくお話ししたいと思います。 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る
ウルバニアの工房見学をしたあとは、夕日を浴びながらの市内観光。小さいながら趣のある旧市街。鉢植えの花が彩りを添えている小さなコッチ橋や、18体のミイラがズラリと並んでいてけっこうオゾマシイ「chiesa dei morti(死人の教会)」。そして、メタロウ川に架かるりっぱなリスカット橋。そこから臨むドゥカーレ宮殿は、私たちが入ったパーキング側からは、想像もつかないほど優雅な佇まいを見せていました。
「ほら、あの窓から陶器の破片を投げ捨てるの」と、この日一日快くガイドをしてくれた彼女が教室を指さしながらいいました。そのドゥカーレ宮殿をバックに記念写真を撮り彼女と別れ、私たちは再び車に乗って、その日の宿泊地であるグッビオへと向かいました。
それでは、グッビオに移る前に、ちょっと寄り道してお隣のウルビーノへ。このあたりのマヨルカ陶器大発展に欠かせない人物たち、歴代のウルビーノ大公たちについて、ひとことふたことお話しさせて下さいな。 ではまず筆頭は、なんといってもフェデリコ•ダ•モンテフェルトロ( 1444〜1482)さん。 フィレンツェのウフィッツィ美術館に、ピエロ•デッラ•フランチェスカによって描かれた、あのなんとも印象深い横顔の肖像画がありますが(あの鼻の形は忘れられない!)、彼は傭兵隊長にして時のメディチと並ぶ人文主義者。ウルビーノの威風堂々としたドゥカーレ宮殿に、たくさんの芸術家を集めて文芸を保護しました。そのなかには、かの有名なラファエロのお父さんもいたんですねえ。 そんなフェデリコは、自分の領主内にあったウルバニアをことのほか気に入り、宮殿を修復したり、ウルビーノからの街道を整備したり、近郊には大好きな狩猟の時に寝泊まりする別荘を作ったりしました。 フェデリコの跡を継いだのが息子のグイドバルド•ダ•モンテフェルトロ( 1472〜1508)。彼も芸術保護をかってでますが、なにせ病弱で、36歳の若さで跡継ぎもなく世を去ってしまう。ラファエロの残した彼の肖像画を見ると、やっぱりお父さんとはずいぶん雰囲気が違って、なよなよっとした貴公子ってカンジ。 その後ウルビーノを継いだのが、養子だったフランチェスコ•マリア•デッレ•ローヴェレ。彼は、かの有名な教皇ユリウス2世の甥っこ。この教皇、どこがそんなに有名かって、とにかく戦争好きで策略好き。教皇というよりは完全に君主。(って、この時代の教皇ってみんなこんな感じですが)でも芸術も大好きで、かのミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせたのも彼。そんな叔父が後ろ盾になっていたフランチェスコ•マリアも、当然戦争やったり芸術を保護したり…。 とまあこんな時代背景のなか、マヨルカ陶器の名工たち、ジョヴァンナ•マリアやニコラ•ペッリパーリオ、その息子のグイド•ドゥランティーノ、そしてクサント•アヴェッリなどが活躍したんですね。 ニコラ以降の名工は、ウルバニアからウルビーノに窯場を移し、さらに名声を高めます。 彼らの得意技は、ラファエロ絵画などを模した版画から図案をとったこと。そして、鮮やかな黄色や藍色、薄いグリーン、そしてときには緋色を使ったりして、いとも華やかなイルトリアートや、グロテスク文様を額縁のようにあしらったラファエッレスカなど、各自オリジナリティーをだして競い合いました。 グイド•ドゥランティーノはウルビーノでフォンターナ工房を設立。16世紀後半にここで作られた数々の作品は、これでもか、これでもか、というほど手が込んでいてそりゃあすばらしのですが、私的には、その後のパタナッツィ工房のラフェエッレスカの方が好き。 どこかどう違うかは、こちらのサイトでご覧下さい。ウルビーノのマヨリカ•ルネッサンス陶器がいっぱいのっています。(…といって逃げる私。彼らの陶器はとてもイラストにできるもんじゃございません!) http://www.amyxart.com/MAJOLICA/source/cities/urbino.html ちょっとこぼれ話し。 36歳で世を去ってしまったグイドバルド•ダ•モンテフェルトロは、プラグラ(プリクラじゃないですよ、プラグラ! え? たとえが古いって?)という病気で死んでしまったそうですが、なんだろうと調べてみるとナイアシン欠乏症とあって、トウモロコシを主食とする地域でなりやすいそうです。グイドバルドさん、ポレンタばっかり食べてたのかしら? 冗談はさておき気になるのは、“アルコール依存症患者など、栄養不良(特に鉄、ビタミンB2、B6の人)は、ペラグラになるリスクが高くなる” ですって! ヤバイ! 今夜はワインは抜いて、レバーのサルビア風味、コントルノはホウレンソウにしよう! 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る 第二話 グロテスクの神秘、ウルバニア
とある年の夏、絵陶器好きが高じて友人とふたり、とうとう「イタリア•陶芸の里を巡る旅」にでました。プランとしては、当時住んでいたのがフィレンツェということもあって、まずはその周辺のマルケ、ウンブリア州あたりを回ってからファエンツァまで足をのばし、それからナポリ、アマルフィー海岸周辺をうろうろして、シチリア島まで行くというもの。
で、まず最初に向かったのがマルケ州の小さな街、ウルバニア。フィレンツェから車で約3時間の道のりです。ここは、ルネサンス全盛時代カステルデュランテと呼ばれていて、早くも15世紀末にはジョヴァンニ•マリア、続いて16世紀にはニコラ•ペッリパーリオ(別名ニコラ•ディ•ウルビーノ)という名工を生み、イタリア・マヨルカ陶器の特徴のひとつ、イストリアートを極めました。 イストリアートとはなんぞや? それは、まるで絵画のように史実やアレゴリー、聖書やギリシャ神話などを、皿や壷などの画面いっぱいに絵付けしたもの。 余談ですが、実は私、陶器に感心を持つまでは、ウルバニアなんて街ぜーんぜん知りませんでした。お隣の街、ウルビーノならマルケ州きっての観光地ということもあって、かのラフェエロの生家あり、壮大なドゥカーレ宮殿ありで、何度も訪れたことがあったのに…。 まあとにかくカステルデュランテは、そんなウルビーノと密接な関係にあって、芸術保護で有名なウルビーノ大公のもとで、ラファエロの絵画性を真似た、ひときわ質の高いイストリアートを生んだのです。 さてウルバニアに着き、パーキングの表示に誘導され車を止めてみると、目の前にドゥカーレ宮殿。その入り口には、さっそく「Corso della Ceramica(陶芸教室)」の看板が。ここでは、夏期ヴァカンスの陶芸教室が市によって運営されていました。 どれどれと覗いてみると、なんとそこには、ちょうどここで絵付けを勉強しているという日本人女性が…。彼女は、先生の許可をもらって、とても気さくに教室内を案内してくれ、その場でマヨルカ陶器のできるまでをさっと教えてくれました。 まずはビスコットといわれる素焼きの陶器を、マヨルカの特徴である錫でできた真っ白いうわぐすりにつけ、乾いたら絵付け。顔料はとてもサラサラしたものなので、こすれないように要注意!それから顔料を固定するため、ガラス質のうわぐすりをコンプレッサーで吹きかけて、窯で焼く。 そして、「失敗した作品は、窓から外に投げるのよ」と、窓の外を指差す彼女。その言葉にびっくりして窓の外を覗くと、その遥か下には大きな川、メタロウ川が流れていました。なーるほど、粘土から作る陶器、失敗作は自然に帰るってわけか。 彼女はその後、市内にあるいくつかの陶芸工房を案内してくれました。 そのうちのひとつの工房で、ひときわ目をひいたのが、グロテスク文様を全面にちりばめた深いペルシアン・ブルーの絵皿。 グロテスク装飾とは、かの悪名高き皇帝ネロが、西暦64年のローマの大火事の後で造らせた、巨大な「ドムス•アウレア(黄金宮殿)」に用いた装飾で、ルネサンス時代に発掘されて日の目を見たもの。そのときの様子が、“まるで地下に埋もれた洞窟(ラテン語でgrotto)のようなところに描かれた装飾 ”だったので、 グロテスク模様と呼ばれるようになったという話し。
そしてその装飾を、今度はラファエロがバチカンの回廊装飾に用いたところから、グロテスク模様を皿のふちなどにあしらったものをラファエッレスカと呼んだりします。この工房のラファエッレスカの飾り皿は、それはそれは繊細でエレガントで、濃い藍色がなんとも神秘的。 すっかり魅せられてしまった私は、思わず「ほしいっ!」と手にとりかけたのですが、これらはもう完全なアート、装飾品。ともなれば我が家には、これを飾れるような上品なサロンもないし、なにしろ値段も高い(約3万円!)。「これから先、いちいち買ってたら破産しちゃうわよ」という友人のするどい一言もあって、断念した私でありました。
ちょっとこぼれ話し ここ数年、とにかく子育てに忙しく、世間のニュースからはとんとご無沙汰していたのですが、今回「ドムス•アウレア」を調べていたら、なんと!ドムス•アウレアって、1999年から一般に公開されていたんですねえ!で、もっと驚いたのは、今年の3月に一部の天井が崩壊しちゃってたんですねえ!!(これさえも知らなかったとは!) とにかくコワ〜イ一大事。だって、地下に埋もれたドムス•アウレアはとても広大で、その上には市民が憩う公園も広がっているっていうじゃない? ある日突然崩壊したら…? でもとにかく、修復されたら今度は絶対見に行こう! 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る
もうずいぶん昔の話し、フィレンツェに住んでいた頃のこと。il tegame(イル•テガーメ)という小さなキッチン雑貨を売る店があって、とても気に入っていて、ちょこちょこ寄ってはちょこちょこチープなものを買っていました。そのなかのひとつに、マヨルカ陶器があったのです。
とはいっても、当時は “マヨルカ”かなんて名称は全く知らず、ただただ「なんて素朴でかわいい器なんだろう!」っていうカンジ。 ちょうど両手にすっぱり収まるくらいの小ぶりのお碗で、丸くてぽっちゃりしていて、いかにも手塗りといった色合いがたまらなく、色違いで3つ揃えました。そしてそれらはずいぶん長い間、私のキッチンに収まっていたのですが、そのうちひとつ割れ、ふたつ割れ…、結局今では3つともなくしてしまいました。 今思えば、あれが私とマヨルカ陶器とのささやかな出会い…。
イタリア全国ぐるぐる巡ると、色鮮やかな絵陶器を売るおみやげ屋さんが、たくさん並ぶ街があります。お皿やコーヒーカップはもちろんのこと、水差しや大きな壷、あるいはランプなどいろいろ。絵柄も花や蔦模様、レモンや葡萄、鳥などの素朴なものから、しっかりと描き込きこまれた古典的なものまで実に多様。 日本でもすっかりお馴染みになったトスカーナの小さな街、シエナやサン•ジミニャーノなどで、お目にかかった方も多いのではないかしら。初めて訪れたときは、あまりのかわいさに重さのことも考えず、日本へのおみやげにずいぶん買いあさったものでした。 そうこうしてるうちに、これらの陶器がマヨルカ焼きと呼ばれていることを知ったのですが、無知な私は単純に「ああ、もともとは、あのスペインのマヨルカ島で作られていた陶器なんだな」と思い込み、以前1年ほど暮らしたことのある、バルセロナでよく見かけた絵陶器を思い出していました。 さらにおはずかしいことに、ある日、古本屋で「MAIORCA」という写真集を見つけたとき、これはきっとたくさんの陶器の写真があるに違いない!と思い込み、即刻購入。ウキウキしながら家に戻って開いたら、絵画のように組み合わされたりっぱな絵タイルの写真はあっても、絵皿の写真は1枚もない。 あれ?おかしいなあ…じゃ、マヨルカって何?……こうして私の自己流マヨリカ研究が始まりました。 それではまず、いったいなぜマヨルカ陶器と呼ばれるか、というお話しから。 簡単にいっちゃうと、13世紀からイベリア半島(スペイン)で作られ始めた絵陶器が、15世紀よりマヨルカ島に集められて荷積みされ、そこから大量にイタリアに出荷されたので「マヨルカから来る陶器」ということで、イタリア語でmaiolicaと呼ばれるようになったというわけ。 で、このスペインから来る陶器がイタリアで空前の大ヒット! そりゃあそうでしょう。当時のヨーロッパといえば、暗黒の中世から抜け出たばかりで、陶工技術もまだまだパッとしないもの。そこへ、なんとも高度な技術をもったキラキラ光るラスター彩や、美しい色彩の絵陶器が入ってきたのだから。(ラスター彩についての明細はのちほど!) この美しい絵陶器のカギを握るのが、マヨルカ独特の白い素地。それまでの地色は、テラコッタの茶がほとんどだったのに、マヨルカでは、鉛釉に錫を加えることによって出来上がる、白く不透明なうわぐすりを使用。地が白ければ白いほど、当然絵柄も引き立つというもの。 つまり、マヨルカ陶器とは錫釉陶器のことなのです。 9世紀の中世イスラム人によって開発されたその技法は、ムーア人(アフリカ北岸に住んでいたイスラム教徒)によるイベリア半島侵入で、少しずつスペインに伝授されました。 で、かくして白くなった陶器はまさに白いキャンバスとなり、いろいろな絵付けがされるようになります。絵付けはどんどんエスカレートして、やがてルネサンスの開花と共に、イタリア各地の窯場で制作され、その全盛期には一気に芸術品にまで高まることになるわけです。 とまあ、そんなところをちょっと念頭にとめていただいて、これからイタリア• マヨルカ陶器•旅物語の始まりで〜す! 『あっちこっち陶器の街』一覧リストへ戻る |
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